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- 2024
- 11
- 桑原政子さん・小谷晃文さん
株式会社 漁村女性グループめばる 顧問/代表取締役
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世代を越えて受け継がれる「ごまだし」物語
- 桑原 政子 【くわはら・まさこ】
- 株式会社 漁村女性グループめばる 顧問
まき網漁家の専業主婦だったが、2004年に「漁村女性グループめばる」を立ち上げ、ごまだしの製造販売を開始。めばるは2011年に合同会社、2022年には株式会社となる。2014年に『海の恵み佐伯ごまだしレシピ』(講談社エディトリアル)を出版。テレビや雑誌にも多数取り上げられ、主力商品である「ごまだし」の認知度と販路拡大に取り組んできた。2022年に事業承継をし、現在は顧問としてめばるの活動を見守っている。2023年秋の叙勲で旭日単光章を受章。
- 小谷 晃文 【こたに・あきふみ】
- 株式会社 漁村女性グループめばる 代表取締役
近畿大学 農学部水産学科を卒業後、株式会社ニッスイ中央研究所大分海洋研究センターに勤務。マグロ養殖やバナメイエビ養殖などに関わる。単身赴任や出張の多い仕事だったため、結婚して子供ができてからは家族と共に生活したいという希望が強くなり、2021年に会社を辞職。同年、めばるの工場長として採用。2022年に桑原さんと事業譲渡契約を交わし、めばるの代表取締役となる。
漁村女性グループめばるのあゆみ
大分県佐伯市鶴見地区のまき網漁家の専業主婦だった桑原政子さんは、2004年に仲間たちと「漁村女性グループめばる」(以降、めばると表記)を立ち上げた。家族が獲ってきた魚の値段を上げたい、地元の新鮮な魚の美味しさを消費者に伝えたい、そんな思いから、地域のイベントで鮮魚や活魚の販売を開始。軽トラックの荷台に泳ぐ魚が見えるように窓をつけた水槽を積んで、あちこちのイベント会場を回るようになった。しかし、まき網の漁獲が安定しないことや、そもそも丸のままの魚を扱える消費者がほとんどいないことから、活魚販売で活動を維持するのは難しいと感じるようになる。自分たちにできることは何かと考えた時に、これしかないという答えが、「ごまだし」だった。ごまだしとは、エソやアジなど地元でその時々に水揚げされる新鮮な魚を焼いて身をほぐし、ゴマや醤油、みりんなどと練り合わせて作るペースト状の万能調味料だ。鶴見地区では昔からそれぞれの家庭で作られてきた郷土食だが、だんだんと手間暇かけてごまだしを作る家も減ってきていた。家庭の味だったごまだしを瓶詰商品として全国販売するようになったのは、めばるが先駆けだった。
ごまだしは、茹でたうどんにのせてお湯を注すというのが一般的な食べ方だったが、万能調味料として2012年に全国調味料選手権(日本野菜ソムリエ協会主催)にエントリーした結果、シェフや調味料ソムリエから高評価を受け、最優秀賞を受賞した。この賞をきっかけに、2014年にごまだしのレシピ本『海の恵み佐伯ごまだしレシピ』((株)講談社エディトリアル)を出版し、現代の家庭の食卓でも広く活用できるごまだしの使い勝手の良さと美味しさをアピールした。また、商談会への積極的な参加やテレビや雑誌の取材を通して、ごまだしの知名度が徐々に上がっていき、取引先には首都圏の名の通った店なども入ってくるようになった。
しかし、桑原さんは70歳を迎え、今以上のめばるは自分には作れない、と思うようになる。めばるは何としても継続したい、そのためには、めばるの経営だけでなく想いも一緒に引き継いでくれる後継者が欲しい。桑原さんがそう思っていた時に、それまで勤めていた会社を辞めて、佐伯で仕事を探していた小谷晃文さんと出会う。小谷さんがどうして佐伯で働くようになったのか、めばると出会い、めばるを引っ張る2代目代表になったのか、今回は、めばるとともに走り続けてきた桑原さんと、次の時代のめばるを育てていくことになる小谷さんお二人にインタビューした。
生き物が好きだった
小谷 僕の出身は兵庫県三田市というところです。六甲山の裏側、牛なんかが普通にいるようなところです。高校3年生の時に進路を決めなければならなかったのですが、特にこれをやりたいというものもありませんでした。ただ、大学に行って4年間勉強するのであれば、余程好きなことでないと続かないな、という思いはありました。好きなことといえば、何か物を作ることかな、と思ったのですが、そうすると建築くらいしか浮かびませんでした。そんな時に、通っていた予備校の先生が近大の水産出身で、学生時代の話をしてくれて、なんだか面白そうだなと思いました。もともと生きものが好きだったし、こういう所なら続くかな、ということで先生と同じ近畿大学の農学部水産学科を受験しました。
大学は3年生から専攻が分かれるので、僕は増養殖学を選びました。4年生になると各地の実験場に配属されるんですけど、僕は和歌山県那智勝浦の研究所に所属になりました。丁度マグロの完全養殖が実現したくらいの時で、国からの研究予算がつき、僕らの代から3年間くらいはマグロ養殖を希望する学生が沢山いました。僕が関わったのは、養殖マグロの餌の開発でした。それで味覚生理学というのを学びました。つまり、マグロの舌がどんなアミノ酸を感知できるのか、ということを実験していました。マグロが感知するのはどのアミノ酸なのか、それは好きだから感知するのか、嫌いだから感知するのか、つまり誘引物質と忌避物質とを見極めて、誘引効果の高い餌を開発しよう、ということです。
マグロ・エビ・サバと養殖現場を渡り歩く
小谷 就活の時は、研究職より技術職に憧れがありました。でも、和歌山の山奥から就活するのは本当に大変だったので、まぁ就職できなくてもいいかな、1年くらい足踏みするのも人生経験としていいかな、なんて考えていました。そうしたら、ニッスイからマグロ養殖に関わっていた学生が欲しいと言いう話が研究室に来て、就職も決めずにフラフラしていた僕に回ってきました。それでニッスイの水産養殖研究所へ就職が決まり、今から22年前の22歳の時に大分県佐伯市に移ってきました。
仕事を始めて最初の4年間は佐伯にいましたが、その後ニッスイが奄美大島のマグロ養殖会社を子会社化したので、その子会社へ2007年から5年間出向しました。子会社では、別の漁業会社がそれまで漁獲後にそのまま安く水揚げしていた、2~3キロのヨコワと呼ばれるマグロ幼魚を養殖種苗として利用する新しいプロジェクトをしました。長崎対馬や島根の洋上でヨコワを活かしたまま受け取り、養殖漁場まで運ぶため毎年夏の3ヶ月間乗船しました。さらにその5年間に子会社の生産規模は10倍になり、奄美大島以外の漁場が各地に増え、養殖場全体の育成状況管理や技術開発も担当していたので、夏以外のシーズンも各事業所を1年中転々と回りました。養殖現場での仕事にやりがいを感じていたので、忙しいことが当時は気にならず、離れて暮らす妻と一緒に過ごしたのは1年で1週間程でした。
2012年にマグロ養殖の子会社から大分の研究所へ戻ってからは、陸上水槽で卵から孵化させ育てた体長5~10cmのマグロ稚魚を海の生け簀で大きくする中間育成の技術開発を担当しました。夏場はその研究拠点があった和歌山県串本に長期出張をする生活でした。大分に戻っている間に子供が2人生まれましたが、2017年子供が4歳と1歳の時、実証化ステージだったバナメイエビの国内陸上循環養殖研究へ担当業務が変わり、再度家族と離れて、鹿児島県頴娃町で単身赴任する事になりました。休みを取って鹿児島から大分へ戻るたびに、哺乳瓶が終わっていたり走り回るようになったりと子供はどんどん成長しているのに、僕は途切れ途切れにしか成長を見られませんでした。鹿児島でのエビ養殖の技術開発を3年間担当した次は、米子で新しく始まったサバの陸上循環養殖プロジェクトに2020年から責任者として行く事になりました。家族との距離がさらに離れ、またコロナの脅威が高まった頃で電車やバス移動が出来ず、車で片道9時間掛けて帰省するなど、米子にいた時は心身ともに大変な中、頑張りました。
家族と共に暮らしたい
小谷 そんな時に、入社時から僕のことを何かと気遣いかわいがってくれた先輩が急に亡くなりました。それで、仕事とはいえ家族と何百キロも離れて暮らしているのはどうなんだろう、と考えてしまいました。今のままの仕事をしていたのでは、家族と一緒にいることができないと思ったのと、妻は2021年4月にはフルタイムに戻ることが決まっていましたから、子育てとフルタイムの仕事で、その上夫は単身赴任というのはどう考えても無理だよなということで、2021年5月に会社を辞めました。
佐伯で仕事を探し始め、ハローワークを通して漁村女性グループめばるの面接を受け、7月に工場長としてめばるで働き始めました。その年の11月には、政子さんから「やる気があるなら、めばるを継がない?」と打診されました。
何としてもめばるを残したい
桑原 めばるの後継者については、誰かいい人いないかなぁ、とずっと言い続けていたんよ。言わないと伝わらないから、とにかくいつも口に出して言っていた。何としてでもめばるを残さんといかんという気持ちがあったから。小谷さんは、ニッスイのそれも研究者ということで、会う前は色白でメガネをかけたイメージ。実際に会ってみたら色が黒くて、この辺の漁師さんと同じだ、と親近感が湧きました。しばらく工場で働いてもらって、もうすぐにめばるを託してもいいわ、と思いました。まず、衛生管理や水産の専門的な知識を持っているところは、やはり高評価でした。これからは、そういうことが必要になる。2021年にHACCP対応が標準になるということで、その対応が難しくって活動を辞めた女性たちのグループもあるんよ。そういうことを考えていたら、これからのめばるを続けていくのは自分の手に負えなくなってくるな、という思いはあった。でも、ただ利益だけを追求する人には渡したくない、やはりめばるの想いを受け取ってくれる人でないと、という考えでした。その点、小谷さんは大丈夫という信頼感があったかな。
小谷 引き継ぐということについては、脱サラした時点で、何でもやってやれ、という気持ちでしたから、特に構えることもなくそれもいいな、という思いでした。それに妻も働いてくれているのだから、とりあえず生活は大丈夫という安心感もありました。
ごまだしは、就職で大分に移ってきた時に、町中の飲食店で初めて食べました。単身赴任時代も自分用と同僚への土産用に馴染みの飲食店で買って帰ってました。
あとから分かったのですが、就職して大分に来た時に初めて住んだ町営住宅の前の住人が、政子さんの長男さんの家族だったんですよ。なんだかいろいろな縁を感じます。
桑原 そうそう、息子たちは家を建て直すために、仮住まいとして町営住宅に入っていたんです。その後にその部屋に住んだのが小谷さん。
小谷さんとの話が固まってきてから承継センター(大分県事業引継ぎ支援センター)に登録をして、金額的なことや書類などを仲介してもらった。こういう機関があることは、商工会から紹介してもらいました。
株式会社漁村女性グループめばるの誕生
桑原 株式会社にしたのは、私が辞める時。それまでは合同会社でやって来たけど、事業承継するには合同会社ではちょっと難しいところがあった。それで株式会社にして渡すことにしたんだけど、タイミングとしては本当にめばるの良い時に引き継いでもらえたと思う。女性グループでやっている人たちとも話すけど、やはり業績が落ち込んできてからでは誰も取り合ってくれんわね。
小谷 今は、僕も含めて6人態勢です。3人は僕より前からのめばるのメンバーで、70代が一人、60代が二人、50代一人、40代が僕で、30代が一人います。今は僕がいなくても製造の方は任せられるので、僕は営業に力を入れることができています。
桑原 私が人を入れようと思ったら、同じような年齢の人しか入ってこない。若い人がリーダーになると、若い人が入ってくる。30代の人が入ってきたのは、小谷さんのような若いリーダーに代わったからだと思う。
それに、商品はじっとしていても売れるものではない。小谷さんは自分から何日も売り込みに攻めて行くこともできるけど、私だったらそうはいかなかった。やはり家庭があるから、そういうことができんかったなと思う。55歳まで専業主婦で、何をするにもまず家庭があるという感覚が植え付けられているから。それは生まれ育った時代のせいなのかもしれない。でも、そういうことは後で気が付いた。
新たな仲間との新たな試み
小谷 めばるに入った時から商工会議所の青年部にも入りました。今、地方創生という補助金をとって、鶴見と米水津と蒲江3支部でそれぞれシロップを作ろう、ということで、蒲江が海の色をイメージした青いシロップ。米水津がアジずしをイメージしたシソのシロップ。うち(鶴見)はマリンレモンという、皮が緑色で香りがすごくいい地元のレモンを軸にしようかな、という構想を練っています。これを炭酸水や焼酎で割ったり、氷にシロップとしてかけたり。例えば地元の祭りで地元のものを提供していきたい。祭りの時に、外からの業者が子供の笑顔を持って行ってしまうのはちょっと悔しいので、地元のもので、長く作っていける商品にしたいと思っています。それは水産加工とは被らないものをと考えています。これで大儲けするというよりは、イベントで販売して、みんなで打ち上げが出来ればイイなぁ。それで仲間ができて活動が広がっていけばいいんです。
引き継がれるもの
小谷 僕は自分の味覚に自信があるわけでもないので、事業や伝統の郷土料理を継ぐ上で何が一番大事かを考えると、めばるの商品を選んでくれるファンの方々が、どういう理由でめばるを応援してくれているのか、政子さんたちがこういう思いでやって来たというところをちゃんと引き継いで安心して頂くことが一番だと思っています。事業承継する時に、政子さんは名前も変えていいと言われましたが、漁村女性たちのこれまでの活動そのものが価値なので、名前もそのまま承継しました。
我々加工業はそもそも魚価の下支えという役割があります。大量に獲れた時に、どれだけ値段を保てるか、ということ、それがまず一つ。めばるのお客様は、漁村女性の生き生きした姿とか、浜のお母さんたちの丁寧な仕事に裏打ちされた商品を求めていると思うので、そこを大事にお客様に喜んでもらえる商品づくりを心掛けること、これも大事なことです。つまりは、カテ(糧)が何かをよく考え大事にすること。政子さん流に言えば「いのちき」っていうことでしょうかね、海はいのちき。
桑原 そう、いのちき。いのちきっていうのはここらの言葉、方言だから、標準語で表すのは難しいんだけど、魚だったら頭からしっぽまできちんと使い尽くすというようなことかな。海は命そのもの、暮らしそのものだから。
これからのめばるの新たなストーリーを創造する
小谷 めばるは家族が獲ってきた鶴見の魚を売りたい、というところから始まったのだけど、それはごまだしでなくてもいいんだと思います。地元の魚、というときに、もう鶴見の魚だけでは間に合わないくらいいろいろ作れるようになって、大分県の魚、九州の魚と広がっていって、地元は鶴見だけじゃなくて、九州産も地元って言えるようになれば良いと思う。もっと広がって日本産も地元って言えるようになればいいな。そういう中で、めばるの強みを考えながら商品開発をしていきたい。ごまだしは海産の旨み成分を丁寧に抽出しているので、これを基に出汁であるとか、今はふりかけにも力も入れているので、そういうものを伸ばしていくことをまずは考えています。原料は市場から仕入れていますが、遊漁で釣れるエソは、遊漁者が食べるわけではないので、それをうちで使えないか、という話も出てきています。鮮度がよいうちに冷凍してもらえれば十分使えます。いわゆる未利用の魚を有効活用していくようなネットワークができればよいなと。それも「いのちき」ですよね。廃棄する皮や骨も炒って粉にして養鶏農家に餌として提供したり、そういう資源の循環をしたい。
桑原 ニワトリに魚の骨の餌を与えて、筋肉隆々のニワトリつくって、その鶏が産んだ卵からマヨネーズを作ったらどうだろう、とかね。マヨネーズとごまだしはすごく合う。それを商品にするのは難しいんだけど、そういうものができれば、めばるらしいストーリーのある商品ができるな、なんて夢を見ている。
小谷 そのマヨネーズとごまだしとマリンレモンを合わせて、唐揚げ用のディップなんかもいいですね。マリンレモンは、魚の骨の餌で育った鶏の糞を肥料にして育てる。そういう循環系のストーリー性のある商品を、これからどんどん作っていきたいと思っています。
( 一社)うみ・ひと・くらしネットワーク関 いずみ
桑原さんの「ごまだしが私を社会に出してくれた」という言葉と、小谷さんの「ごまだしが私を家庭に戻してくれた」という言葉が、とても印象に残りました。働き方が見直され、一人一人の幸福感が重視され始めた時代の中で、小規模ながら想いのこもった丁寧な商品づくりを続けてきた漁村女性の起業活動が、仕事と家庭を両立できる企業として認知されるようになったんだな、と感慨深い思いです。それにしても、桑原さんと小谷さんの掛け合いは息がぴったり。これからも素敵な商品を作っていってください。
- 関 いずみ プロフィール
- 東京生まれ。博士(工学)。(一社)うみ・ひと・くらしネットワーク代表理事、東海大学人文学部教授。
ダイビングを通して漁業や漁村に興味を持ち、平成5年に(財)漁港漁場漁村技術研究所に入所。漁村の生活や人々の活動を主題として、調査研究を実施するとともに、漁村のまちづくりや漁村女性活動の支援など、実践的活動を行っている。令和2年に仲間たちと(一社)うみ・ひと・くらしネットワークを立ち上げる。