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2024
6
インタビュートーク
  • 戎本 裕明さん

    明石浦漁業協同組合 代表理事組合長


  • Title
  • 外への発信が内の意識を変える

    ―豊かな海を未来につなぐために―

インタビュー紹介
戎本 裕明 【えびすもと・ひろあき】
明石市で生まれ育つ。野球少年で、高校では甲子園の出場経験を持つ。高校卒業後、漁業に従事し海苔養殖と底びき網漁業を営む。2009年、明石浦漁協代表理事組合長に就任。常勤の組合長として地域漁業の振興に尽力している。2019年から兵庫県漁業協同組合連合会代表監事。

高校球児、漁師になる

生まれも育ちも、明石浦の浜です。父も祖父も、おそらくその前の代から漁業をやっており、自分で4代目でしょうか。僕が子供のころは延縄をやっていたみたいで、そこから底びきに変わり、同じころに海苔養殖も始めました。海苔の加工場が最初に建ったのは、僕は5歳くらいでよく浜で遊んでいた記憶があるから、昭和42(1967)年ごろだと思います。
幼いころ、船に乗るとすぐ船酔いしてしまっていたので、「船乗るんは嫌や」という思いがずっとありました。中学で野球部に入り、高校まで家の漁業を手伝うこともなくずっと野球をやっていました。ただ、冬休みだけは海苔の加工を手伝っていました。小遣いもくれたし、晩御飯もいいものを食べさせてもらったので、バイト感覚で。野球部の活動も、海苔の繁忙期の2週間くらいは家の手伝いもせんといかんと顧問が配慮してくれ、休みになっていました。高校2年の時、甲子園での全国大会に出場しました。昭和54(1979)年、第61回夏の大会。ポジションは二塁手。1勝して2回戦まで進みました。
父親は僕が漁業を継ぐことを期待していましたから、大学進学に関しては「4年間遊んできてもええやろ」という気持ちだったと思います。でも僕は学校の先生になりたかったので、大学に行ったら漁業には就かないという決意でした。受験がうまくいかず、それで漁師になる踏ん切りがつきました。不思議なもんで、「今日から漁師や」と思って船に乗ったら、その日から全く酔わなくなりました。しかも、それまで魚は苦手で避けていたのに、漁師になってからは食べるようになりました。

底びき網と海苔養殖

高校を卒業して漁業に入った当時(1980年)は、底びき網漁業が5月から8月の操業で、海苔養殖は協業化が進み、グループで経営という形態になっていました。底びきは個人の漁業だから、やるとなると船も個別に準備しなければなりません。年に数か月の漁のために数千万円の船を造るのですから、覚悟も必要です。最近は底びきの操業が6月から8月の3か月になり、海苔の収入が8~9割を占めるようになってきたので、底びきに新たに投資する人は減り、もともと船を持っている人や中古船を買って漁に出る人もいますが、夏は身体を休める期間という漁師が増えています。
2024年現在、明石浦漁協の組合員は240人程で、そのうち60人くらいが海苔養殖、残りの180人は漁船漁業を専業でやっています。2023年の水揚げを見ると、海苔は20億円、漁船漁業は10億円。海苔養殖は生産量、金額とも兵庫県が2年連続日本一でした。一方で近年、魚が減ってきて、海苔についても色落ちの問題が起こるようになっており、なんとかしなければと、豊かな海の活動に力を入れるようになっていきました。

海苔養殖の潜り船(提供:JF兵庫漁連)

海苔養殖の潜り船(提供:JF兵庫漁連)

漁業後継者参入の背景

全国的に漁業者の高齢化が進む中、明石浦漁協を訪れた方からよく、「若い人が多いね」と言われます。明石浦の組合員は僕をはじめ60歳前後の人数が一番多く、この世代の息子たち(現在30歳前後)が思った以上に入ってきてくれたのが大きいです。彼らが入ったころ(2011年ごろ)から海苔がぐっと良くなってきたということも影響しているかもしれません。それまで1~2年に1人程度だった新規加入者が、数年で20人くらい加わり、浜が活気づいています。
2013年から防潮堤の整備が具体的に進み、海苔の加工場などの関連施設を移転、集約し、2018年に完成しました。海苔のグループ(協業体)は新しい加工場に入るときに合併したところもあり、漁船漁業だけやっていた若手から「自分も入りたい」と希望する人も現れ、家族単位でやっていた小さなグループにも若い人が加わって、なんだか良い感じの循環になってきています。
海苔の加工場を新設してから、作業分担もしやすくなり、あるグループでは、沖作業4人、陸作業2人ときちんと分担して作業することで、効率がよくなり、働き方の改善にもつながっているようです。

漁業は面白いぞ

僕が漁業に入ったとき、家の底びきの船を新造しました。今の船は2代目で、長男(息子)が乗っています。長男が大学生だったころ、ある日、「話があるんやけど」と言ってきて、「漁師して飯食える?」と尋ねられました。よくない話ではないかと緊張していたところに、思わぬ質問で戸惑いましたが、「いけるんとちゃう?」と答えました。学生時代に長男がバイトしていた居酒屋で仲良くなった漁師から、「漁業をやろうや」と言われていたこともきっかけになったのかもしれません。
最近は「自分の子供には漁師を継がせない」という人が多いけれど、「親が自分の子供に期待せんと、誰が期待するんや」と言った人がいて、「ああ、それもそうだな」と思っていました。だから、自分は息子に「漁師になれ」と言ったことはないけれど、「漁業は面白いぞ」とはよく言っていました。就職活動もしてみたけれど、漁業の魅力が上回ったんだ、と思っています。
3人の息子がおり、次男は農業、三男は今年5月に帰ってきて漁師になりました。三男は大学卒業後、別の仕事をしていましたが、小さいときから魚が好きだったし、漁師になった兄の姿を見て「いいな」と思ったのかもしれません。
息子たちをはじめ若い世代の漁師を見ていると、大学で学んだり、就職したりして、一度外に出て違う分野で得たことを漁業に生かしていくのも良いことだなと、頼もしく感じています。

組合長になる

組合長になったのは2009年、46歳の時で、丸15年経ちました。明石浦漁協の組合長は常勤なので、組合長になった時点で漁業を休業することになりました。前の組合長からは「お前のやりたいようにすればええ」と言われ、これまでのルールを変えて非常勤勤務もできたのですが、海苔のグループに持ち帰って相談したら「こんな大きな組合で組合長をやるとなるといろいろ大変だろうし、やるんやったら漁協のために専念してくれ」と言われ、常勤で組合長として全力を尽くすことを決心しました。
とはいえ、役員の経験もなくいきなり組合長になったので、最初は何をどうしたらよいのかもわかりませんでした。隣の漁協の組合長に「何したらええのん」って聞きに行ったら、「することは自分で探さなあかんぞ」と言われました。そこからは手探りながら、資料を読み込み、いろんな方に話を聞きに行くなどして、漁協内や漁業界の現状や課題を知ろうと努めました。
組合長になった当時は「魚のブランド化」がしきりに言われていました。明石はどちらかといえば元々タイやタコなどが有名な海のまちですが、名前がもっと広く知られ、高く評価されて価格も上がるようにと力を入れてきました。
月日が流れる中で状況は変わり、近年は「魚がおらへん、魚を増やせ」と、海の環境や資源といった根本的な問題が大きくなってきました。最近の一番のキーワードは「豊かな海」。海はきれいなだけじゃなく、栄養と餌が豊富な豊かさが必要だと痛感するようになりました。ブランド化は今でも大事な取り組みの一つですが、魚がいなければ元も子もありません。

「豊かな海」のための活動

明石市の5漁協をはじめ、兵庫県では豊かな海づくりを掲げたさまざまな取り組みを継続的に実施しています。
「海底耕耘」は、兵庫県で2004年から始まり、今も毎年実施しています。海に投入した鉄製器具「耕耘桁(けた)」をロープに結んで船で引っ張り、海の底を耕して貝などの堆積物をかき混ぜ、硬くなった土や泥、砂を掘り起こすことで中にたまっていた窒素やリンなどの栄養塩を放出する取り組みです。
農業者を中心にやってきた「かいぼり」は、ため池の水を抜いて大掃除し、設備を点検する取り組みですが、農と水、畑と海はつながっているということで、僕たち漁業者も2010年から手伝いに行くようになりました。栄養分の高い土が海に流れていって、それが海への栄養供給につながります。
明石はため池の多いエリアです。ある年、台風が来て、近隣で浸水被害が出た中で、明石は遭わなかったんです。なんでや、ということになり、明石は台風が来る前にため池の水を抜いてそこに雨水をためるようにしたので浸水被害を回避したんだ、ということがマスコミに出ました。かいぼりでため池を管理していたからできたことだと思います。先人の知恵は、農業のみならず地域のさまざまなことに役立っているんだと感じました。
ほかにも、森づくり(植樹)、種苗放流など、いろいろな活動を行っています。これらの活動には、水質と魚を増やすという2つの視点があると思います。
海の栄養面では、下水処理の際の窒素やリンについて、これまで上限値だけを決めていたものを、下限値も設けて一定以上の濃度で流してほしいと行政に働きかけ、兵庫県は全国に先駆けて実現に至りました。地元の養鶏場などと協力して、鶏糞をペレットにした肥料の施肥の実験も行っています。
魚を増やす・守る活動としては、明石市漁連で、タコつぼの中で卵を抱いている母タコが入っていたら漁協が買い取って海に返す「子持ちダコ再放流事業」を実施しています。タコの住処にするためのタコつぼの投入を継続して取り組んだり、タコ釣りのルールをつくって釣り人に周知したりもしています。

かいぼり活動の様子(提供:金山成美さん)

かいぼり活動の様子(提供:金山成美さん)

力強いサポーターの存在

試行錯誤しながらいろんな活動をしている中で、神戸新聞の金山成美記者と知り合いました。2013年から明石の担当になって、漁業の取材をたくさんしてくれていました。金山さんに言われたのは「いいことをいっぱいやっているのに、外の人にはそれが見えていない」ということです。確かに明石の魚がおいしい、なんていうことはテレビ番組でも取り上げてもらって情報として出ているけれど、海が枯れている、豊かな海を目指さなければ、なんていうことは全く伝わっていなかったし、魚が減っているのは「漁師が獲りすぎているから」っていう一言で片づけられておしまいでした。
海底耕耘もかいぼりも、兵庫県中でやっているのに、自己満足で終わってしまっている。ため池にも多様な役割があって、いろんな人が関わりを持っているということが大事なんだけど、それを外に発信していかなければ、気づかれないで終わってしまう、ということが実感としてわいてきました。金山さんは、漁師たちの活動をどんどん発信するために力になってくれ、記事をたくさん書いてくれました。2016年には1年かけて明石の海、漁業、魚にまつわる取り組みや思いを連載してくれ、本として出版もされました。大きな反響があり、多くの人に知ってもらうことの大切さを痛感しました。

ポスターと動画で海からの発信

新聞記事だけでなく、もっと広く知ってもらうためにほかの方法でも発信しようと、ポスターと動画でのPRも始めました。「豊かな海シリーズ」として、2020年度から年度ごとに一つ、これまでに3つのテーマで作成しています。豊かな海にするために漁師たちがやっていることを、漁師自身がモデルになって伝えるものです。海のこと、漁業のことを知ってもらう入り口にするイメージです。
動画は、活動の内容や経緯を解説して海への思いを語る5分くらいのものと、若手漁師主演の30秒くらいのメッセージ性の高いもの、それぞれ2種類です。金山さんに監修してもらい、この動画と若手漁師をモデルにしたポスターをセットにして、「いざ、耕す!」海底耕耘プロジェクト、「海へ、届け!」かいぼりプロジェクト、「守り、育む!」海の恵み保全プロジェクトの3シリーズを作りました。
「豊かな海へ」海底耕耘プロジェクトの動画は、「サステナアワード2021 伝えたい日本の“サステナブル”」(主催は、農林水産省・消費者庁・環境省の連携による「あふの環2030プロジェクト~食と農林水産業のサステナビリティを考える~」。農林水産に関わるSDG’sの動画の表彰。)で、農林水産大臣賞を受賞しました。賞に応募するために動画を作ったわけではないのですが、動画を見てくれた人から「応募してみたら」と教えてもらって出してみたら大臣賞に輝き、驚くとともに、漁業関係者の思いが詰まった作品が評価されて、みんなで喜びを共有できたことがとてもうれしいです。
2023年度にはセリのポスターと動画を作成しました。明石浦では、ほぼ活魚の状態でセリをしています。競った魚は活魚、あるいは活締めにして高鮮度で流通しています。でも、そういうこともあまり知られていないので、魅力を伝えようと考えました。どんどん発信して、明石浦の魚を評価してもらいたいと思っています。

漁師たちの意識が変わってきた

こういった取り組みを重ねる中で、若い人たちの意識が随分変わってきました。豊かな海動画の第1弾を作成するときに、明石浦の青年部長をスカウトしてポスターのモデルをお願いしたら、最初は「えー俺がやるの?」と消極的で、何とか承諾してもらって撮影しました。その後、動画が受賞したり、駅前や県庁で流されたり、ポスターが各所に貼られたりしたので、知らない人からも「あ、あのポスターの漁師さん」なんて声をかけられるようになったそうなんです。そうしたら本人も意識が変わってきて、「やっていることをちゃんと伝えなあかん」と言うようになっていきました。第3弾では、青年部長が若手漁師をモデルとして推薦して、撮影の時も参加し、「もっとこうしたら」なんてアドバイスするくらいまでになりました。動画や写真を撮ってくれたカメラマンは、若手漁師たちと年齢が近くて、一緒に打ち上げをしたときに若い者同士で「どうしたら伝えていけるんか」という話で盛り上がっていました。その光景に未来を感じました。
ポスターや動画は、明石浦のメンバーが参加して作っていますが、豊かな海の活動は明石全体、兵庫の各地でも行っています。海底耕耘という言葉も、PRによって結構広がってきだしたと実感しています。一昨年、明石市で開かれた全国豊かな海づくり大会会場でも、動画を流してチラシも置いてもらい、発信に力を入れました。

外からの視点の役割(金山成美さんから)

新聞記者としての取材を通して明石の漁業や魚の魅力、海の現状や漁業関係者の取り組みを知り、強く関心を抱きました。異動で明石を離れてからも興味を持ち続け、豊かな海のポスターや動画の企画で監修をさせてもらいました。カメラマンを選ぶとき、上手に映像が撮れるというだけではなく、漁師さんたちの話に耳を傾け、自分自身も発信者になるんだ、という意識を持ってくれる人にお願いしよう、と考えて依頼しました。動画もポスターも、漁業関係者の思いを詰め込めるよう、セリフではなく当事者の生の声を集め、何度も一緒に話し合いながら作成していきました。
中にいると当たり前になっていて、何がすごいのか、何が特徴的なのか、ということがわからないこともあります。私自身がもともと漁業の素人だったので、海のことをあまり知らない一般の人にとって何がわからないのか、それが理解できるように、という視点を大事にしました。

  • セリの様子

    セリの様子

  • 廃棄になった漁網で作ったバッグ

    廃棄になった漁網で作ったバッグ

これからの明石浦に思うこと

いろんな活動をしていても、目に見える効果というのは簡単には出てきません。でも、それをやることによって漁業者自身の意識改革が進む。そういうことが本当に大事だし、取り組みだけでなく、我々の思いも含めて発信することの意義は大きいと思います。
誰にでもわかりやすく豊かな海のことを伝えるために、色落ちした海苔を利用した海苔ビールなど、商品開発にもチャレンジしています。
資源を守り魚を増やして豊かな海を未来へつないでいくという漁師の意識改革や実際の活動と、いろんな切り口から発信していって多くの人に興味を持ってもらう活動は、並行してやっていかなければ、と思っています。
漁師は個人事業主でそれぞれが経営者だからこそ、じりつ(自立、自律)を目指さなあかん、と思います。外にも目を向けながら、新しいこと、新しい人も受け入れて継承していくことが大事です。目指す姿をしっかり見据えて、そこに向かっていろいろなことをやっていく。やることは時代によって違うかもわからんけど、目指す姿がしっかりあれば、結果としてぶれることはないと思います。これまでの歩みを理解した上で、今何をすべきかを考える。そうした姿を周囲に見せていくことが、漁業に対する理解を深めることになるのではないでしょうか。

インタビューを終えて

( 一社)うみ・ひと・くらしネットワーク関 いずみ

明石浦に来たら、セリを見てほしい、ということで、今回はインタビュー前にセリ見学をしました。市場全体が生け簀状態。ビチビチ跳ねる魚たちがどんどんセリにかけられていく様子は圧巻でした。このセリを維持するためにも「豊かな海」であることが必要なんですね。日々の生活の中で、漁師さんたちが実践していることやみんなの思いを、これからも魅力的な方法で私たちに伝えてください。

関 いずみ プロフィール
東京生まれ。博士(工学)。(一社)うみ・ひと・くらしネットワーク代表理事、東海大学人文学部教授。
ダイビングを通して漁業や漁村に興味を持ち、平成5年に(財)漁港漁場漁村技術研究所に入所。漁村の生活や人々の活動を主題として、調査研究を実施するとともに、漁村のまちづくりや漁村女性活動の支援など、実践的活動を行っている。令和2年に仲間たちと(一社)うみ・ひと・くらしネットワークを立ち上げる。
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