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- 2022
- 11
大震災を乗り越え人のつながりを財産に
~速やかな復旧・復興の要因と村の存続に向けた取組み~
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- 小田祐士
- 岩手県九戸郡野田村長
1955年生まれ。1979年野田村役場入庁。
水道課、農林商工課勤務等を経て2005年より現職 -
- 髙吉晋吾
- (一財)漁港漁場漁村総合研究所 理事長
東日本大震災から11年が経過し、インフラの復旧・復興はほぼ終了しました。これからは、その経験を今後発生が懸念される大規模災害への備えに活かすことが重要です。また、温暖化等環境の変化、人口減少・高齢化の進行、新型コロナによる社会情勢の変化等を踏まえ、今後の漁村地域をどのように維持・発展させるか考えることが必要になっています。
岩手県野田村は、大震災により大きな被害を受けましたが、三陸で最も復興が早かった村と言われています。また、恵まれた自然環境を活かし、特産の荒海ホタテ、のだ塩、山ぶどうなどを用いた産業振興に積極的に取り組んでいます。
震災当時から村長として復旧・復興の先頭に立ち、さらには持続可能な村を目指して様々な施策を打ち出してこられた小田祐士村長に、復旧・復興にあたっての経験やこれからの村づくりなどについて、当研究所理事長の髙吉がお聞きしました(2022年8月3日オンライン)。
自然に恵まれた心豊かな村
髙吉 コロナの第7波の感染拡大となり、オンラインで開催することにしました。久しぶりに小田村長と現地でお会いできるのを楽しみにしていましたので残念ですが、コロナが落ち着いたら本日の話で出てくるであろうリアルの野田村をぜひ訪ねたいと思います(※10月13日に訪問)。まずは、普段はどのように野田村を紹介されているのでしょうか。
小田 野田村は小さな村で、人口約4千人、縦横10数㎞で面積は80.8㎢です。昔から海あり山あり川ありと自然に恵まれ、食材も豊富で、村民の方が豊かな気持ちで暮らしてきた村です。野田村には東北のリアス式海岸の中でも珍しく十府ヶ浦海岸という砂浜があります。昔は漁港がなかったので、砂浜から物を揚げて、それを内陸の方へ運ぶ物流の要衝として発展してきましたが、各地に港が整備されてくると、要衝としての役目は廃れていきました。野田村には県管理の第2種野田漁港と村管理の第1種漁港である玉川漁港と下安家漁港があります。
2011.3.11東日本大震災発生
髙吉 東日本大震災から11年が経ちました。当時電話で小田村長から、「家は流されたけど自分は無事です。親戚の家に仮住まいしています。」と聞いてほっとしたことを思い出します。ご自身も被災者の立場でありながら、村長として村の復旧の陣頭指揮に立たれました。たいへんなご苦労があったと思いますが、震災直後の状況やまず何から手を付けられたかお聞かせください。私は村で復旧・復興の経緯をまとめられた「野田村復興記録誌」を見ながらお話を伺いますのでよろしくお願いします。
小田 野田村は、震度5弱、最大津波約18m、村内の3分の1に当たる515棟が被害を受け、37名の方がなくなりました。私も経験したことのないほど大きな地震でしたが、子供のころから、大きな地震の後には津波が必ず来ると教わっており、実際にチリ地震津波では、自分は妹の手を引き、母が弟を背負って近くの高台の神社に逃げた記憶があります。
これは津波が来ると思い、まずは職員に村民の避難所を開設するように指示しました。しかし避難所に行くためには海沿いの道路を通る場所もあり、もしかしたら職員が津波に巻き込まれるのではと、指示した後で気づきハラハラしましたが、幸い全員無事で胸をなでおろしました。
自分は、職員たちと役場の2階へ避難し、そこから海の方を見ると、昭和三陸地震の後に住民が協力して植えた樹齢約70年のクロマツの防潮林がバタバタと倒れていくのが見え、役場の周りを歩いていた住民の方に、「役場に入れ。早く逃げろ。」と叫びながら、我々はさらに役場の3階に避難しました。後で降りてみると1階は津波が入りゴミやヘドロが堆積していました。
悲惨な被害状況を見て、すぐに岩手県や自衛隊などに応援を要請しました。そしてこの後の対応をどうするか、今被災している方々をどのように助けるか、冷静になって考えました。だんだんと薄暗くなってくるなかで、助けてほしいという声も聞こえましたが、瓦礫の山で役場から出ることができず、出ると二次災害になる可能性もありました。大声で「明るくなるまでそこで待ってください。明るくなったら助けに向かいます。」と声をかけ続けるしかありませんでした。
あまり記録等には載っていないと思いますが、野田村では津波で多くのプロパンガスのボンベが流出しました。昔は毎晩外に出て元栓を閉めていましたが、最近は建物内の栓を閉めればよいという構造になっています。津波でボンベをつないでいるホースがちぎれ、開いている元栓からシューというガスの漏れる音が聞こえていましたが、幸いにも引火することはありませんでした。明け方になってガスの抜ける音がしなくなり安心したのを覚えています。
行方不明者全員の確定に全力
髙吉 直接お話を聞いて、迫ってくる大津波の恐怖や日暮れを迎えて不安が募る様子がよく分かりました。
小田 次は、村民の安否確認を急ぎました。とにかくひとりずつ確認しなければなりませんでした。白い大きな紙に、避難所に来た方、親戚の家などに行った方、残念ながら遺体で見つかった方、そして住民票等のデータを活用して確認の取れない方の名前を書いて貼り出しました。そうすると、役場に身内の情報の確認にきた方が「○○さんは××で会った」と居場所を教えてくれたりして、震災発生から3日後くらいには、行方不明者全員の人数と名前を把握できました。
行方不明者が全員見つかるまでは次の段階に移行できないと思っていました。まだ生存者がいるかもしれない、たとえ生存が難しくてもそこに住民の方がいるかもしれない、そういう中では、大きな機械を入れて瓦礫を片付けることは出来ません。消防の方々の仕事の基本は遺体を探すことではなく生存者を探すことですから、しばらくすると本部から撤退の話も出ましたが、隊長になんとか協力してほしいとお願いしたところ、本部からも役場の指示に従ってよいということになり、3月28日までに行方不明者全員が見つかりました。
一方で、行方不明者を見つけるためには、建物を壊さなければなりません。2階が残っていた人には、最低限のものだけ持ち出して残りは我慢してほしい、早く仲間を見つけるために家を壊させてほしいとお願いしたところ、皆さんが了承してくれ、了承を得られた家には『解体OK ○月○日』という文字をペンキで書いていきました。
3つの堤防でまちを守ることに
髙吉 それでは、暮らしの復旧・復興についてお聞きします。村の中心部は今後の津波に備えて三段構えの堤防で復旧されました。このような考え方はどのような検討を経てできあがったのでしょうか。
小田 被災した人たちから、「村の復旧の方向性が見えないとこれからどうするのか判断に悩むので早く決めてほしい。」という声が大きくなっていました。大きな枠組を決めるうえで、私も被災者だったということが非常にプラスであったと考えています。もし私の家が無事であったとしたら、私も被災者の方々と話しにくいですし、住民の中にも「お前の家は助かっているだろう」といった意見も当然出てきたと思うのですが、同じ被災者として、思い切ったことが言えました。
海から役場までの被災状況は大きく3つに分かれていました。一番海側のエリアは、たくさん住宅があったのですが、建物が影も形もなくなってしまい、焼野原のような状況でした。その次のエリアは、私の家も含まれるのですが、家は流されたけれども形は残っており、2階にあったものは持ち出すことができる状況のエリアです。3つ目のエリアが、一番役場に近いエリアで、津波は到達したが家は流されなかったエリアです。
この3つのエリアで、過去の津波被害と今回の被害の状況を踏まえ復旧することを考えました。一番海側のエリアに再び住んでもいいとは言えません。もう一度住みたいという方もいましたが、そこは災害危険区域にすることに決めました。ただ、図面上だけの危険区域だと時間が経てば人が住んでしまう可能性があるので、いわゆる第三堤防とよばれる土の堤防を作り、それよりも海側は危険区域と目に見える形にしようと思いました。
具体的にどのような事業を使うかなどは後になってからなのですが、既に私の頭の中では、三つの堤防を建設して、海側に危険区域を設定して、どこかに高台を作って移転し、役場の周辺は区画整理して、ということが3月中には出来ていました。
4月になって、そのような考え方を村民に説明したいと言ったところ、村の技師たちが、「説明会をやるには図面を作らなければならないので2~3ヶ月時間が欲しい。」と言ってきました。自分は「堤防の位置、危険区域の設定、高台のイメージを模造紙にマジックで描いて、危険区域内になってしまった住民の方はそちらに移動してほしいといった話は明日にでもやりたい。」と言ったのですが、さすがに明日は無理だということになって、平成23年5月12日と16日に住民懇談会を1日2回、地区割をしながら開催しました。住民の皆さんは「分かった。」と反対意見は一切ありませんでした。その後6月までに1ヵ月ほどかけて復興の基本イメージを図面に起こし、改めて説明しました。
なお、危険区域にする場所のラインは私のイメージで引いただけでしっかりとシミュレーションをする必要がありましたので、最終的な境界線が確定したのは、その年の秋頃だったと思います。
①第一の堤防として海岸堤防を再建し、②その背後に第二の堤防として国道と三陸鉄道、さらにもうひとつ内側に、③土の第三堤防を作るのです。このことについては、野田村復興記録誌の15ページに記載しています。
①のラインでは、壊れた堤防を14mでかさ上げしました。実際に来た津波は18mだったので、この防潮堤では津波の威力を弱めることしかできませんが、なるべく壊れないような堤防を作ってほしいので、堤防の中に土を入れて再建しました。②のラインの国道がある場所は、私が小さい頃は土の堤防だった場所に被覆してバイパスを通しました。また三陸鉄道は、鉄道を敷くために盛土をしています。これら二つを合わせて第二のラインとしています。そして、③のラインが新たに盛土で作った第三堤防になります。第三堤防と第二堤防の間は公園にしました。
髙吉 震災後の中央防災会議で、海岸堤防は東日本大震災のような最大規模の津波L2ではなく発生頻度の高い津波L1で設計し、L2津波に対しては避難を軸として土地利用などを組み合わせて総合的な津波対策を考えるという方針が出されました。また、隣の普代村の太田名部漁港では、漁港の防波堤で津波が弱められたおかげで、その背後の海岸堤防を津波が越えずに集落が守られたことから、これをもとに漁港の防波堤と海岸堤防による多重防護という考え方が水産庁で整理されました。野田村の対策はこれらの考え方をうまく組み合わせた形になっています。
土の堤防にこだわり
小田 また、私が第三堤防など土にこだわったのには理由があります。津波でコンクリート製の海岸堤防は壊れましたが、その内側にあった国道は壊れませんでした。国道の場所は、先ほど言ったように元は土の堤防で、また北部の農地海岸堤防も壊れませんでしたが、それも私が小さい頃は土の堤防で、後に被覆かさ上げしたものでした。このことから、個人的な考えですが、コンクリートだけで作った堤防は古くなると壊れるが、土の堤防は壊れないというイメージが私の中にできていました。私は土木を勉強していたわけではないのでわかりませんが、土は50年100年経つと、大地と一体的になるのではないかと思ったのです。
③のラインの背後には区画整理事業を投入し、危険区域に指定した場所に住んでいた人たちには、高台を整備しました。米田高台団地、十府ヶ浦・南浜団地、一番大きなエリアが城内高台団地です。
三陸沿岸でもっとも復興が早かったと言われる
髙吉 野田村の復興が三陸沿岸で一番早かったと言われていますが、何がポイントとなったとお考えでしょうか。
小田 早々に住民の方と復興のイメージを共有できたこと、私自身も被災者だったこと、行方不明者が3月28日までに全員見つかったことに加えて、国土調査がちょうど終わっていたことが挙げられます。この4点だと思います。
国土調査が終わってないと、個人個人の土地の境が分かりません。昔の手書き図面だと、例えば千坪あるところに、5人なら5人の図面を重ねると千坪を超えてしまうわけです。そこで国土調査というのは、500坪持っていると言っている人が実は450坪しかないですよ、というのを了解させながら、境界を打っていきます。そういう調査作業を、山も住宅地もすべて実施します。一カ所起点を決めると、土地を正確に再現できます。だから、家を壊してほしくないという人がいても、壊してもちゃんと再現できるので安心してほしいと伝え、取り壊し作業にかかることができました。
髙吉 今後の災害に備え事前復興を検討するうえで、大変貴重な情報だと思います。村の中心部以外でも漁港がある下安家地区などで大きな被害がありました。
小田 野田村はもともと明治の合併で、野田村と玉川村が一緒になってできた村です。旧野田村で被災したのは、十府ヶ浦の南浜地区、米田地区、泉沢地区、役場がある城内地区、北に行くと、新山地区、そして村の一番北側の中沢地区です。この中沢地区は、隣の久慈市久喜地区で昔、山津波で被災した人たちが移ってきたところです。中沢地区の漁業権は実は久慈市にあり、ここから移動すると漁業権を持てなくなるので、津波で流されても中沢地区に住むしかないということです。旧玉川村では下安家地区で大きな被害がありました。
コミュニティの維持に配慮
髙吉 昨年当研究所のシンポジウムで震災復興10年をテーマにし、特に漁村のコミュニティを維持することが暮らしと産業の復興に欠かせないのではないかという視点で議論をしました。野田村では仮設住宅に移ったり、高台に移転したりする際に、地区のまとまりやコミュニティの維持にどのように配慮をされましたか。
小田 村中心部については、応急仮設の時にもなるべく同じコミュニティの人がまとまるようにしました。次の段階では、どこの高台に行きたいか、区画整理をした場所に戻って住みたいか、自主再建したいかそれとも災害公営住宅か希望を聞きました。例えば、危険区域に設定した海側の地区には100世帯ほどが住んでいたので城内地区に一番大きな高台を整備することになりました。まずは希望者の数で設計をして、災害公営住宅に住みたい人も自主再建する人も同じようにどこに住みたいかを聞きました。親戚同士でも自主再建したい人と災害公営住宅に住みたい人もいたので、バラバラにしてしまうのはよくないと考えて、地区ごとにまとめるだけではなく、どの区割りに住みたいか住民同士で話し合って調整をしてもらいました。どうしても決まらない場所や住みたい場所が被ってしまった場所については抽選にすることにしましたが、結果的に抽選を行ったのは2軒のみでした。
村南部の下安家地区は、川を遡上した津波で大きな被害が生じましたが、漁業集落機能強化事業を活用し、以前の土地をかさ上げして自主再建したり、近くに高台を整備しそこに自主再建したり災害公営住宅に入居したりとコミュニティがそのまま維持されました。米田地区には専業や兼業の漁師が住んでおり、浜に近く、家から浜見ができる場所がいいとの希望があり、すぐそばにある海の見える高台に移転しました。
「文句を言う村長がいる」と噂が広がる
髙吉 野田村の災害公営住宅は集合住宅ではなくすべて戸建て住宅なのですね。
小田 そうです。全部一戸建てです。面積は基本100坪。国からは集合住宅ではどうかという話もありましたが、「それではダメです。元々田舎の人たちは戸建てに住んで庭にちょっとした家庭菜園も作って生活してきたのが、集合住宅だったら精神的にもちません。」となんとか戸建てで建てられるようお願いをしました。また、100坪は広いと言われましたが、「すいませんが都会と違うんです。4人いると車が5台必要です。4人が仕事に行くためには4人それぞれに車が必要ですし、田んぼ等で作業するために軽トラも必要となり、そのためには、100坪は必要です。それが田舎の生活です。」と訴えました。なんとか要望が通りました。そのころから、「野田村には文句を言う村長がいる。」と噂されていたようです。
髙吉 以前土木学会誌上で建築の内藤廣先生が野田村の話をされていたので、小田村長にコピーを送ったことがありましたが、そこにも国にも県にも言いたいことを住民の立場に立ってずばずば言う村長がいると紹介されていました。そのことですね。
小田 野田村の復興方針を県に説明に行ったときに、東大の副学長だった内藤廣先生が岩手県の復興委員としておられ、土の盛土で第三堤防を作りたいという話をしました。その時に、どこのコンサルが提案したんだと聞かれましたが、私個人が考えたことだと話したら、面白いねということで、野田村に来られるようになりました。高台の道路線形について、当初は碁盤目に整備しようかと考えていましたが、先生にその話をしたら「普段生活をするのに碁盤の目や同じ高さで山を切ったら、つまらない生活空間になってしまうのでだめだ」と言われました。そこで、高台を整備する際には、上の方にいくにつれてだんだんと高くなるようにし、道路もカーブを描くように設計しました。私自身は内藤先生のことをあまり知らなかったのですが、コンサルの方々は恐縮していました。
日本海溝・千島海溝地震にも今の体制で
髙吉 先般、日本海溝・千島海溝で東日本大震災を超えるような津波の被害想定が発表されました。東日本大震災を最大クラスの津波と考えて防潮堤等を整備してきた自治体からどうしたらいいのかと不安の声も上がりました。野田村はどのように対応しようとしていますか。
小田 これまで東日本大震災の規模が最大ということを前提に、国も野田村もそれに対応できるように進めてきました。極端な話をすれば、自然災害は来るかもしれないし来ないかもしれない、大きいかもしれないし小さいかもしれない。これまでやってきた整備・対応というのは、元々避難を前提にしたもので、東日本と同じ規模の津波でも止められるものではありません。ですから、今後もこれまでの対策のもとで、被害を軽減し、避難を前提に安全を考えながら生活していくということになると思います。
漁業者のすばらしい心意気
髙吉 それでは、野田村の生業である漁業の復旧についてお聞きしたいと思います。漁船、漁具、漁港などほとんどが失われたと思いますが、漁業の再開に向けてどのように取組まれましたか。
小田 漁師の絆はすごいと思ったことがあります。東日本大震災によって漁船がほとんど流されてしまって、自分がこれからどうしようかという時に、がれきの撤去をしながら、残った2隻の小さな船で、ホタテの稚貝を育てるためのラーバの採取をすぐに始めました。私は単純に自分たちの生活のためだろうと思っていたのですが違いました。野田村のホタテ漁は今は成貝も作りますが、もとは稚貝を育てて出荷するというのがスタートでした。その稚貝出荷をしなければ、同様に被災した県南のホタテ漁師の生活の糧がなくなってしまうので、その人たちのためにも稚貝を作らなければならないという思いで始めたそうです。すばらしいと思いました。
温暖化、人手不足等により水産業は厳しい状況
髙吉 東北では近年サケ、サンマ、スルメイカなど主要な魚種が極端な不漁になっています。また天然資源に依存するばかりでなく、養殖業への転換を進めている地域もあります。震災後の野田村の漁業の状況はどうでしょうか。
小田 これまでサケは村の漁業の柱でしたが、回遊が激減しており、サケの資源回復をどうしていくかが大きな問題です。また、3年ほど前からホタテが斃死しています。寒いところで育つ貝なので当初は海水温が高いことが原因だと考えていましたが、今はそれ以外に何かの病気なのではないかと言われています。今年は生産量の7割以上が斃死してしまいました。中成貝、9cm前後のホタテは生残率が比較的高いのですが、成貝が大量に死んでいます。早く原因を究明しないと、せっかく“荒海ホタテ”として頑張っているのに厳しい状態が続いてしまいます。一方で、これまで磯焼けで騒いでいたのに、なぜか今年は海藻が生えています。ウニの実入りがいいんですよ。どうなってるんだって話です。海のことは分からないことが多いのです。
高齢化もあり、震災を契機として漁師をやめるという方も結構いました。震災前には190前後の漁家数がありましたが、令和3年度末時点で123まで減少しています。ホタテの養殖業者も震災前は30あったものが、震災後は17になりました。その後は横ばいで推移しています。何とか頑張っている状況です。ホタテ養殖は沖の作業もありますが、陸上での作業も結構多いのです。今までは親子三代に近所の親戚に手伝ってもらって成り立っていましたが、高齢化で作業を行えなくなってくると、生産を増やすことができません。漁をする若い人たちを連れてくるのも課題ですが、陸上の作業を行う人たちを組織化していかないと、厳しくなると思います。これはウニも同じで、採ってきてもウニをむく人が必要です。
荒海ホタテのGI登録と荒海団の結成
髙吉 “荒海ホタテ”の話がありましたが、野田村自慢のホタテは早い段階で地理的表示(GI)登録※を取得されました。その経緯や狙いについて教えてください。
小田 農水省に要請活動に行った際に、たまたま担当課長からGIという制度ができたが、まだ応募が少ないという話を聞きました。面白い制度だなと思い、野田村にはホタテと塩があるという話をしました。それはいけるんじゃないかということになったので、村に帰り、漁協に話に行って、村も全面的に応援するから是非やらないかと持ち掛けたところ、漁協もやりますということになりました。ホタテは“岩手野田村荒海ホタテ”と称してGI登録できましたが、塩は野田村の塩の特別なところが弱いと言われて、登録申請しましたがダメでした。
“荒海ホタテ”は、自前の海で採った幼生をネット籠に入れて、まさに荒海の中で成貝になるまで何度も成長に合わせてカゴの中の入数を調整し、入れ替え、貝殻の掃除を行って成長管理を行い、水揚げ後は野田漁港内にある蓄養水槽で保管しストレスをなくして出荷します。身が締まり肉厚で透き通った味が特徴です。外海での作業は大変で「ホタテは天国、漁師は過酷」と言われています。
かつては、漁師が一生懸命作ってくれているホタテが、普通の市場を通して、スーパーに行って、ホタテが安いですよって売られるわけです。せっかく日本一と言ってもいいくらいのホタテが他のホタテと同じ値段になってしまう。そうじゃなくて、良いものは高い値段で買ってほしいと。GI登録をし、ブランド化して単価を上げ、漁師に少しでもお金が残るようにということが狙いでスタートしました。うまくいっていたのですが、今はホタテの斃死があったりして、需要に応えきれていません。今でも、ネットで販売するとすぐに売り切れてしまうので、斃死への対応と陸上作業の人手を確保できれば、“荒海ホタテ”で、蔵までは建てられなくとも、漁師の生活はもっと豊かになると考えています。
髙吉 GI登録をして、東京の有名なホテルなどと取引されていると聞いていますが、そのような販売ルートの開拓はどのようにされたのでしょうか。
小田 特産品を作る支援事業があり、ホテルニューオータニをコンサルの方から紹介され、中島総料理長のところにホタテを持っていったところ、「これは良いものだ。わかる。においがいい。」と評価していただきました。先週、東京での会議の時にも、「岩手県軽米町の雑穀で作ったJシリアル、普代村のサケ、野田村のホタテもニューオータニで使っているのですが、野田村のホタテは注文してもないと言われるんです。」という話を中島総料理長からされました。
髙吉 ホタテ漁師の方々が“荒海団”を作ってお祭りやホームページなどで販促に取組まれていますね。
小田 GI登録をした後、野田村のホタテを外に売り出していこうということで結成されました。「だんだんだんだん荒海団♪」という歌も作っています。“荒海団”はよい発想をしたなと思っています。ひとつは、生産者の気持ちを盛り上げるということ。それまでは個々にホタテを作って出荷していたのですが、そうではなくて、みんなで力を合わせて、絶対にいいホタテだからと自信をもって売りに出るぞという気持ちを団という形にしたものです。
稚魚の大型化でサケの不漁に対抗
髙吉 サケの不漁が岩手県下でも大きな問題になっています。天然資源だけに頼るわけにはいかないということで、サーモンの養殖に取り組む動きも広がっています。
小田 サケの不漁を受け、県内各地でサーモン養殖に取組んでいますが、湾のない野田村のようなところはどうするのか、自分は外来サーモンの養殖ではなく、サケの回帰率を上げることに挑戦したいと考えています。昔のサケの回帰率はいい時期には3%、4%の時もありましたが、今は0.0数%です。自然環境もあるのでしょうが、回帰率が悪くなっても、放流数を増やせば確保できると考え、特段の対策をしなかったことが原因かもしれません。今、下安家漁協では、以前より大きめの稚魚にして海に放流することに取り組んでいます。これは県の増殖協会の事業で行っていますが、経費もかかるので、村でも単独の補助をしています。やはり、回帰率を上げていくことが大事です。下安家の孵化放流施設は震災時の津波で壊滅した後も相次ぐ台風で再び被災し、放流できない、そして回帰率も上がらないという悪いスパイラルに入ってしまいました。それを戻すためには時間がかかると思うのですが、ここで諦めるのではなく、サケを昔ほどではなくとも、ある程度ひとつの漁業の柱となり得るような形にしていかなければならないと考えています。
生業を成り立たせていくためには、これから何を組み合わせるかも今後の課題だと思っています。今までは、定置網でサケを獲って、サケが終わったらワカメ養殖やホタテ養殖をしたりというようにサケがひとつの柱でした。しかし今はサケが獲れなくなっているので、その中で、時期をずらして養殖できるものをどう組み合わせるか。野田村全体で話し合って、考えなければなりません。
漁業後継者の参入の兆し
髙吉 厳しい状況ですが、震災やコロナ禍を経験し、仕事や生活に関する考え方も変わってきたように思います。外から漁師になろうということで野田村に入ってくる方はいるのでしょうか。
小田 今までいなかったのですが、この間一人入ってきました。なかなか面白い人で、今はいろいろなことを勉強してもらっていますが、ホタテをメインでやっていこうとしています。他にも、ホタテ漁師の息子が、野田村に帰ってきて、漁師をやることになりました。明るい兆しがようやく見えてきたところです。その矢先に、ホタテが斃死したりサケが獲れなかったりしている状況はちょっとかわいそうだなと思っています。漁師で飯が食えるように、村としても支援していきたいと考えています。
海業(うみぎょう)等への取組み
髙吉 国では漁村の存続を図るため、漁業を中心にしつつ海業に力を入れ、所得確保や漁村のにぎわいを取り戻そうとしています。分かりやすいのは、食堂、直売、加工、漁業体験などですが、野田村では何か取り組みがされていますか。
小田 野田村ではこれからです。野田村の漁師は田んぼを持っている人も多く、海業ではない副業は行っています。隣の普代村では新規参入した若い漁師が食堂をしようと言っており、うらやましいなと思っています。野田村の中沢地区には刺身やイカの塩辛などちょっとした加工をして産直に出している漁師がいます。それが結構売れています。新しく三陸道ができ、2,3年後になると思いますが道の駅に現在の直売所を移転し、そこに水産物も置きたいと思っています。設備投資があまりかからない形で、簡単な加工品も販売できればと考えています。1.5次加工のようなことを含めた海業ができないとこれからの漁業は厳しいと思っています。
髙吉 そのほか、野田村には、有名な“のだ塩”、山ぶどうなどがあり、それらを使ったお菓子や山ぶどうを使ったワインなどにも挑戦をされていますね。
小田 塩は歴史がありますが、震災前は重油を使っていました。震災後は原点に戻って、昔ながらの薪で焚いて塩を作っています。それから、山ぶどうそのものは昔から自然にあったのですが、それを栽培するようになっていたので、津波の後の色々な支援を使い山ぶどうのワインを作ろうということで“涼海の丘ワイナリー”を作りました。山ぶどうワインは少し酸味が強いという特徴があります。「日本産の山ぶどうのワインを生産しています。」とイベントでやると売れるのですが、今はコロナでイベントがないのでやや苦戦しています。しかし、厳しいとばかり言ってはいられません。これからも色々な加工に取組み、ワインや水産物などのコラボができないかと考えています。
髙吉 野田村が誇る産物を外に売り込むことと合わせて、野田村に人を呼び込み、外貨を野田村の中で落としてもらえるよう、宿泊先、飲食店、直売所等でできるだけ地元のものを提供できる体制ができるといいですね。先ほど中島総料理長の話にもありましたが、近隣の市町村と連携するとさらに魅力があるサービスができるかもしれません。
たくさんの小さな輪を広げて持続可能な村に
髙吉 全国的に人口が減少し、高齢化が進む中で、野田村を持続可能な村にするために今後どのような取組をお考えでしょうか。
小田 私はまだまだ捨てたもんじゃないと思っています。漁師の後継ぎや新しく漁師になりたいという人もいます。やはり第1次産業を柱にして地に足をつけ地場産業を作っていくことが大事だと思います。
津波以降、支援をしていただき様々な付き合いが生まれたので、これからは、そこに産業という部分を入れ込む形でネットワークを作り、村の産業をもっと発展させていきたいと考えています。今もいくつかの大学の学生が野田村を知ろうということで来ていますが、特に若い人たちとのコラボが出来てくるようになると、村は活性化してきます。また、現在、“心はいつものだ村民”という取組みをしていますが、1,200人以上の人たちが、住民票はないけれど、野田村の準村民のような登録をしています。それをまだ活用しきれていません。コロナが落ち着いたら野田村に行ってみたいという人たちが多いので、「野田村は良いところですよ。食べ物も美味しいですよ。何だったらここにきて生活してみませんか。」というように、そのような人たちとの関りをもっと深め、さらにそのネットワークを広げていければいいと思います。
東京にも野田村のホタテを使ってくれるお店があり、そこに野田村荒海団東京支部という看板があったりするんですが、嬉しいですよね。小さなお店でホタテを食べてくれる野田村のファンの人たちがいて、さらにそれを聞きつけて、野田村を好きな人たちが集まってきます。そういう小さいつながりがたくさんあって、それをさらにつないでいって、野田村をどんどん知ってもらって、ファンを増やしていきたい、それによって野田村が元気になっていく、そのような方向にもっていきたいと考えています。
髙吉 去年の暮れに都営地下鉄に乗っていたら、偶然、「盛岡までで4時間、岩手県野田村」というポスターを見ました。4時間もかかったかなとは思ったのですが、あのポスターの意図は何だったのでしょうか。
小田 私も全然知らなかったのですが、「呪術廻戦」という漫画があり、その作者が東北出身、岩手出身らしいと。その中に、盛岡までで4時間かかるというフレーズがあるようなんです。それで職員が、「盛岡までで4時間という広告を出したい。呪術廻戦を知っている人には絶対目につきます。」と言うのです。全国に野田村を訴えたくても、野田村って何?で終わってしまう。それで、呪術廻戦とその作者が岩手出身であることを知っている特定の人にとっては、そこに小さく野田村と書いてあると、野田村って何だってことで興味を持ってくれるのではないかと。私も決裁するかどうか悩みましたが、今の若い人の考えはもしかするとアリかなと思いハンコを押しました。
髙吉 反響はどうでしたか。
小田 ありました。見たという電話や”心はいつものだ村民“のホームページにも問い合わせがあったようです。あれを見て、例えば100人の人から反応があれば、野田村にとっては御の字です。決して1万人、10万人を期待していません。
髙吉 今年、当研究所が事務局をしている都市漁村交流推進協議会では、ワーケーションをテーマに講演会をしました。ワーケーションはコロナの感染拡大の中でテレワークが急速に普及し、それが今後は地方にも拡大していくかもしれないという程度の認識でしたが、各地域はもう積極的に動き出していました。ワーケーションで体験し、出来れば最後は移住してもらったり会社を移してもらったりという動きが出ていますが、先ほどの「盛岡までで4時間」という広告もこのようなことを考えて出されたのではないでしょうか。
小田 それを今ようやく始めているという段階です。お試しワーケーションという形です。コロナの補助金を使い、山のほうにあるかやぶき屋根の宿泊施設や街中にワーケーションが出来るスペースを村内に4か所作りました。流れはでき始めていると思っています。また、移住も前よりもハードルが低くなっているような気がします。野田村がうまく定住条件を整備して、需要があるところにコンタクトをとれるかという、そこにかかっていると思います。これまでは、復旧ばかりでしたが、最近はようやく落ち着いてきたので、人口減少という問題に対してどこまで頑張れるか分かりませんが、仕事を作ることによって向き合っていきたいと思います。“心はいつものだ村民”という関りを持っている人をとっかかりにして色々な人たちとの交流を深めるなかで、ワーケーションや移住が広がるといいと思います。
それから“地域おこし協力隊”がありますが、これまでは漁業なら漁業、農業なら農業という形で募集していましたが、野田村という空間の中で何か地域おこしをしてみたいという人たちに来てもらって、自分たちで考えて、3年のうちに、何かしら形をスタートさせる、そのような形をとっていきたいと思っています。村側から何かしてほしい、あれをしてほしいなどというのはもう古いのかなと思います。今までの我々の感覚とこれからの若い人たちの感覚、都会から来た感覚というのは全然違うと思うのです。
髙吉 野田村は人と人のつながりを大事にされていることがよく分かりました。“心はいつものだ村民”など小さくても様々な人のつながりの輪を地道に広げ、外部の人に村の魅力を知ってもらうことにより、関係人口を大きくして将来を開こうとされていると理解しました。漁業、海業、ワーケーション、移住などを進めていくうえで、これらの取組みは土台となっていくものだと思います。また、今日は震災復興の貴重な教訓についてもお聞きすることができました。野田村が小さくとも心豊かに安心して暮らせる村として発展されることを期待しますとともに、漁村総研としても取組のお手伝いをさせていただくことができれば幸いです。本日は本当にありがとうございました。